ワインと旅の随想 「issyさんの日記」

bQ5  尾 道   2004.10月

   尾道

 十月十二日、平穏な日々が続いているので暇を見つけて尾道まで行ってきました。新神戸駅から各駅停車こだまで新尾道まで行ったので二時間かかりました。尾道は寺の町です。北前船など廻船業の最盛期には裕福な業者がこぞって寄進したので数百の寺院がひしめいていたようですが、現在も市街地に二十五もの寺院が健在です。

 駅の近くのホテルに泊ることにしました。夕ご飯はホテルのレストランで食べましたが、ワインはポルトガルの赤で「王様の涙」です、キリストの涙ではありません。
 十月十三日午前、JR尾道駅前から国道二号線を少し東に行くと道端に林芙美子の銅像がありました。こうもり傘と旅行鞄をそばに置いてしゃがんだ姿です。その前から鉄道の踏切りを越えて石畳の坂道を登ると全国でも珍しい石の門が見えてきます。持光寺です。

 浄土宗のお寺で国宝の絹本着色普賢延命菩薩画像など拝観できるそうですが、今日は此処で拝み失礼して門前を通り過ぎます。
 次は光明寺です。同じ浄土宗で浪分観音や金銅観音があるそうですが此処も門前で拝んで失礼します。
 次は宝土寺ですがその手前の吉備津彦神社(一宮神社)の傍を通って境内に入ります。此処も浄土宗ですが、本堂の手の込んだ細工の欄間とそれを囲む漆喰の白が美しい建物です。

 此処で坂道を下り線路を潜って国道二号線に出るとバス停の渡し場通です。次の停留所の長江口で再び線路を潜り少し進むと千光寺山ロープウェイ山麓駅に来ました。切符を買って建物の右側に沿って行くとエレベーター乗り場があり高い所にあるホームまで楽に登ることが出来ました。ゴンドラは既に座席は満員で立って待っていると間もなく発車しました。尾道の市街が良く見えます。途中で千光寺の上を通って三分間で頂上駅に着きました。駅のすぐ傍に展望台があります。登ってみました。

 東の方は新旧二つの尾道大橋が平行して架かり、その先の松永湾に沢山の船が見えます。西の方は三原市の沖まで見えます。南が向島で本土との間の尾道水道を挟んで市街が続いています。
 「文学のこみち」は山頂駅の傍から千光寺まで続く文学碑の並んだ道です。徳富蘇峰に始まり頼山陽に終わる二十五基です。有名な人を挙げると正岡子規、金田一京助、志賀直哉、林芙美子、山口誓子、吉井勇、中村憲吉などです。普通に歩けば十分もあれば充分だそうですがゆっくり読みながら歩いたので三十分かかりました。

 千光寺本堂は朱塗りの舞台造りで此処からの眺めも綺麗です。本尊は千手観世音菩薩で全ての人を救ってくださるそうです。除夜の鐘で有名な鐘を吊るした鐘楼は驚音楼と呼ばれこれも朱塗りです。創立は大同元年(806)で真言宗です。

 境内を離れて千光寺坂を少し下ると左側にアララギ派の歌人中村憲吉旧居があります。門前に歌碑があり「千光寺に夜もすがら鳴る時の鐘耳にまじかく寝ねがてにける」と彫られています。憲吉は闘病生活の末昭和九年この離れで死去しました。友人の土谷文明なども見舞いに訪れていたそうです。母屋は解体されてなくなっています。療養の土地として医師をはじめ沢山の友人が会合を重ねて選んだ山中善一氏の別荘であり、採光通風が良く景色の好い所の選考条件を満たす好適地だったのでしょう。尾道水道を一望のもとに見渡す風景は憲吉の心をなごませたそうです。

 千光寺坂の石段を更に下ると右側に古い和風平屋建ての「おのみち文学の館」があります。尾道ゆかりの作家たちの記念室には、林芙美子、高垣眸、横山美智子、行友李風などの遺品やゆかりの品を展示してあります。短詩型文学記念館には、中村憲吉、山下陸奥、麻生路郎の品々が並べられていました。民家を改造してあり仕方が無いでしょうが靴を脱いで入館するのは億劫になることもあると思います。

 千光寺道に戻るとすぐ右に行く道があり志賀直哉旧居に通じていますがお昼を過ぎましたし疲れてもいます。次の機会に譲ることにします。線路が見えてくると左が天寧寺ですがこれも次回にします。線路を潜って国道に出て尾道駅前に戻りデパートの地下でお弁当など食料や飲み物をしこたま買い込んでホテルに戻り、自室で随分遅くなったお昼ご飯を済ませてのんびり過ごし、着替えるのも面倒なので夕ご飯も自室で済ませました。



 十月十四日午前、駅前から西の方に行った所にある栗原川に沿った国道一八四号線を遡り、「なかた美術館」に行きました。
 失礼になると思いますがこのように近代的な美術館が尾道にあるとは想像していませんでした。また展示されている絵画の多彩なこと、知っている名前が全部並べられていると思って良いでしょう。端正でありながら温かみのあるピエール・クリスタンや、現在欧米全土で愛されている画家のポール・アイズピリの印象派的な絵が纏めて眺められます。パリ派のユトリロは几帳面なパステルの色調が好きですし、フジタの細かい筆遣いは気が遠くなるようです。キスリング、ヴラマンク、ヴァン・ドンゲンなどもあります。勿論ルノワール、ピカソ、ルオーもあります。林武、梅原龍三郎、中川一政さらに三岸節子もありました。

 ロセアンは館内にあるレストランで日本庭園の見える気持ち良さそうな店ですが、未だ余りお腹が空いていなかったので入るのをやめました。後で聞いたところによると尾道でも有名なレストランで美術館に入館しない人も、わざわざ街からタクシーで来るのだそうです。

 帰路は車の多い国道を避けて栗原川の右岸の道を歩きます。途中で急に道が細くなったので川と国道を渡って真っ直ぐ進み栗原本通に来ました。自動車が発達する前からの道でこれが本当の本通なのでしょう。昔風の店をのぞきながら歩きます。駅前まで行って昼食をとるつもりでしたがホテルの近くに来た時あいにく雨が降り出したので慌ててホテルに戻りました。
 雨はなかなか止みません。遅くなったお昼ご飯も夕ご飯もホテルのレストランで済ませました。ワインは「王様の涙」です。



 十月十五日午前、駅前にある「しまなみ交流館」の観光案内所に行きました。明日から土曜日曜と観光客が多くなるでしょうし、来週は台風の来る恐れもあるので、お天気も好いし今日のうちに「しまなみ海道」の観光に行こうと思ったからです。観光タクシーを世話してもらうつもりでしたがパンフレットを二種類手渡し「駅前のタクシー乗り場に並んでいるタクシーを利用してください」と冷たい応対です。

 駅前にはずらりとタクシーが並んでいます。良い運転手さんに当たると良いがと心配しながら眺めていると、先頭の車の運転手さんが降りて次の車の運転手さんと何か話し始めました。いかにも穏やかで実直そうに見えたので急いで乗り込みました。私がしまなみ海道を来島海峡大橋の見えるところまで行き、大山祇神社と平山郁夫美術館を廻って帰りたいが細かいことは任せますと言うと、運転手さんは私は観光案内が得意ですとのことです。料金と時間を確かめて発車しました。

 国道二号線の長江口で左に折れ古い町並みを過ぎ田園地帯を通って西瀬戸尾道ICに来ました。いよいよ「しまなみ海道」です。まもなく最初の新尾道大橋です。すぐ左(東側)を平行して架かっているのが旧尾道大橋でどちらも斜張橋です。旧は一般道で新は高速道路です。渡った島は向島で尾道水道に面した部分は造船業などが盛んで、尾道市と一体になっています。向島を通り越すと因島との間に架かった因島大橋です。これが二番目の橋で本四連絡橋で最も早く完成した吊橋です。

 因島から生口(いぐち)島に渡る橋は生口橋です。三番目のこの橋はは珍しい複合桁斜張橋です。渡るとすぐ生口島北ICです。実はしまなみ海道は未だ完成していないです。一般道に下りて生口島南ICまで走り、高速道路に戻ります。広島県の生口島から愛媛県の大三島に渡るのは多々羅大橋です。四番目のこの橋は世界一の斜張橋で美しい姿をしています。大三島には大山祇神社がありますが帰路に参詣することにします。伯方(はかた)島に渡る五番目の橋は大三島橋で短いアーチ橋です。続いて六番目が大島に渡る伯方・大島大橋で補剛箱桁吊橋です。大島北I!

Cに来ましたがしまなみ海道は再び未完成の区間になります。一般道に出て大島の南西の端にある亀老山展望台に向かいます。
 亀老山展望台は眺めるだけを目的に作られた石の展望台です。岩山を切って石段が造られていて、それを登ると四角い空間があり、その両側の高い所に展望台があります。視界を遮るものがなく三百六十度見渡すことが出来ます。眼下に見えるのが来島海峡大橋で三連吊橋になっていてこちらから四国に向かって来島海峡第一大橋・第二大橋・第三大橋と名づけられています。客船飛鳥で第二大橋や第三大橋の下を通った時のことを思い出しました。少し左に目を移すと四国の今治市が見えます。その後ろには天気が良ければ石鎚山が見えるはずですが今日は見えません。更に東のほう遠くには瀬戸大橋も見えることがあるそうです。何時まで見ても見飽くことはありませんがボツボツ帰ることにします。

 伯方島を経て大三島に来ました。大三島ICで一般道に下りて大山祇神社に向かいます。神武天皇御東征にさきがけて天照大神の兄神である大山積大神の子孫の小千命(おちのみこと)が四国に渡り瀬戸内海の治安を司っている頃、この島に大山積大神を鎮祭したのが大山祗神社の始まりだそうです。古くはこの島を神の鎮まる島なので御島と書いて「みしま」とよんでいたそうです。海岸に一の鳥居があるそうですが二の鳥居から神域に入ります。

 小橋を渡って広場を進むと小千命御手植の楠があります。神武天皇御東征以前のことです。大風や落雷で背は高くありませんが幹周りの太さなど生命力にあふれています。根回り二十米、高さ十五・六米だそうです。神社の周りには由緒ある楠が沢山あるようです。能因法師雨乞いの楠、伊藤博文記念樹などです。石段を上がって神門を潜り切妻造の拝殿前に進み参拝しました。ご本殿はじかに見ることが出来ませんが三間社流造、檜皮葺、外部丹塗で、蟇股、欄間、懸魚などは精巧緻密に造られているそうです。

 神社に隣接して国宝館があります。まず斉明天皇奉納の禽獣葡萄鏡を始め女性たちが納めた数え切れないほどの鏡が並べられています。次は数々の武将が戦勝祈願や戦勝のお礼に奉納した武具の数々です。護良親王奉納の牡丹唐草文兵庫鎖太刀、平重盛奉納の螺鈿飾太刀、武蔵坊弁慶奉納の薙刀、水軍に関係あるのか薙刀は他にも多数並べてあります。源頼朝奉納の紫綾威鎧大袖付、源義経奉納の紺絲威鎧兜大袖付、祝彦三郎安親奉納の浅葱糸威褄取鎧大袖付、日本唯一と言われる紺糸裾素懸威胴丸は三島安用が娘鶴姫に与えたもので、彼女はこれを着用して天文十二年周防大内の軍と戦った三島水軍に従って出陣し、数日の激闘の末勝利をおさめ凱旋しましたが、凱旋者の中に恋人の三島小冠者安成の姿は見られませんでした。鶴姫の心の傷は大きくその夜小舟を漕ぎでして入水し十八才の自らの命を絶ちました。胴丸の胸の辺りにふくらみがあり女性用らしい形をしています。
 
 日本全国の国宝または重文に指定された武具の八割もが大三島に保存されいているそうです。そのほかにも沢山の文物が展示されています。

  大山祇神社を出て一般道を多々羅大橋の傍まで来ました。多々羅しまなみ公園があります。この橋は此処からの眺めが最も美しいそうです。

 再びしまなみ海道に入って多々羅大橋を渡り生口島南ICに来るとまた一般道になります。まもなく広島県豊田郡瀬戸田町瀬戸田、耕三寺と平山郁夫美術館のあるところです。運転手さんの勧めで耕三寺から行くことにします。

 道路に面して耕三寺と彫られた石柱があり京都御所の紫宸殿を模した山門が立っています。ただし紫宸殿は白木ですがこれは鋼鉄で作られていて朱が塗ってあり、門扉には精巧な浮彫りが施されています。扁額には潮聲山と書かれています。浄土宗本願寺派潮聲山耕三寺ですが若くして鉄鋼業特に鋼管で財を成した開祖耕三和上の発願により和上の母上のために個人で建設されたものであり檀家のない特殊なお寺です。

 中門は耕三寺の表門にあたり法隆寺の西院伽藍の楼門を模したものですが、外観を重んじたものの二階の内部は省略したので階段はありません。しかし飛鳥時代の建築様式を忠実に守ってあるそうです。これを入ると寺域の下段になります。

 中門の左右につながる回廊は法隆寺西伽藍の回廊を模してあるのですが、ただの下段を囲む回廊にとどめず五百羅漢を安置してあります。下段の突き当たりは礼拝堂で京都清水寺西門を模した桃山時代の様式で造られていますが、門を礼拝堂にしたところが独創的と思います。

 礼拝堂の両側の潜り戸を出ると右に鐘楼、左に鼓楼が対照的にあります。奈良の新薬師寺鐘楼の図面をもとに作られていますが、袴腰の反りを強くし色彩を鮮やかにしてあるそうです。礼拝堂から石段を登ると中段です。

 五重塔が中段中央に聳えています。奈良の室生寺の五重塔を手本にしてあるそうですが初層の姿や内部が異なり、外観も極彩色になっています。もっとも特徴的なのは心柱が鋼管になっていることだそうです。五重塔の右側に法宝院、左側に僧宝院が対照的にあります。大阪の四天王寺の金堂を手本に作られていますが内部は宝物館として使うため全くちがうそうです。五重塔を過ぎて進めば石段の上に豪華な門が立っています。

 孝養門です。これから上段になり回廊がめぐらされています。日光東照宮の陽明門を再現したもので、昭和二十八年文部省にただ一枚残っていた設計図をもとに建築されたのですが彫刻や彩色は陽明門以上だと言われいるそうです。陽明門の右は至心殿、左は信楽殿で何れも奈良の法界寺阿弥陀堂を模してあり、至心殿は宝物館として、信楽殿は大講堂として建てられています。

 孝養門と本堂との間は大礼壇と呼ばれ儀式の行われる白大理石の壇になっています。最も奥にあるのが本堂で宇治の平等院を模したものであり中堂、左右の翼廊、尾廊を備えています。平安時代の建築様式を忠実に伝えてあるそうですが、平等院より新しいので絵画、彫刻、細工などまだ美しいものです。

 この建築物の配置は本堂・孝養門・五重塔・礼拝堂・中門・山門の軸に対して左右対称的に作られています。本堂の左右の翼廊、孝養門の回廊、至心殿と信楽殿、法宝院と僧宝院、鼓楼と鐘楼、中門の回廊全て対照的です。耕三和上の好みによるものでしょう。

 見る所は沢山ありますが救世観音大尊像をはずすのは申しわけありません。本堂左後方に聳えています。法隆寺夢殿の秘仏救世観音立像をお手本にしたもので身の丈十米、台座などを含めて十五米もあるそうです。コンクリートの基礎の上に鉄心を組みコンクリートと漆喰で肉付けして彩色されているそうです。
 本堂の右後から外に出ると広島県出身のイタリアで活躍している、杭谷一東さんが耕三和上に任されて造られた大理石の「未来心の丘」に続くそよ風の道です。

 これから先は全てイタリアから運んで来た白大理石の彫刻です。天猫、二鬼の庭、など仏教に疎い私には解かりにくい作品です。二鬼の庭に沿って登ると突き当りがカフェ・クオーレです。エーゲ海のリゾートにある大理石造りのカフェを思わせます。テラスの日傘の下でコーヒーを飲んでいる人もありました。その奥は亀玉の舞台と白獅子の塔です。少し戻って一番高い所にあるのが西に沈む夕日に合掌する光明の塔です。少し下には南の壁累と白像の小庭です。見物を終わって帰るときの門は未来からの炎です。この下に広場があり杭谷さんの仕事場になっていて今でも時々イタリアから帰国して製作に励んでいられるそうです。
 これで耕三寺の見物を終わり平山郁夫美術館に向かいます。



 平山郁夫美術館ではバーミアン遺跡とユネスコ世界遺産の展示会があっていました。破壊された仏像の様子や破壊をまぬかれた壁画のスケッチなどや、スペイン、エジプト、それにシルクロードのユネスコ世界遺産や景色が平山さん独特の柔らかい姿でえがかれています。しっかりと高い塀に囲まれた日本的庭園も簡素で美しく落ち着いた雰囲気を作っています。極彩色の建物の間から出てきたものにとっては心休まる時間でした。

 一般道で生口島北ICまで行き高速道路にのって走ります。生口橋を渡った因島には水軍城があるそうで興味がありますが割愛して帰ります。向島の洋蘭センターも話だけで尾道駅近くまで戻ってきました。未だ昼ご飯も食べていません。運転手さんに教えてもらって昔の倉庫を改造したイタリアレストランに行きました。四時半でしたが五時半から開店するとのことです。それまで我慢することにしてホテルまで送ってもらいました。
 五時半になってそのレストランに行きました。活気のある明るい小奇麗な店です。コース料理の夕食にしました。ワインはキャンティです。久しぶりに美味しく頂きました。食後に駅前対岸にあるクレーンのライトアップが美しいと聞いたのでぶらぶら歩いてゆきました。対岸の向島にある日立造船所の六基のクレーンに色とりどりの光が当てられています。当てる光は綺麗ですが、当てられる対象が何となくすっきりしません。古い民家などのほうが良いのではないでしょうか。

 随分疲れました。ホテルに帰って一風呂浴び、ゆっくりやすみました。



 十月十六日午前、今日も駅前に行き林芙美子の銅像の傍から、車の通れない細い昔風の「うずしお小路」を抜け海岸通に出ました。以前に来た時とは全くちがった近代的な道路になっています。まもなく尾道商工会議所の建物の前に来ました。そこから暫らく昔風の石段の船着場があり、そのはずれに瀟洒な住吉神社が建っています。建物は新しくなっていますが古くからこのあたりの人々の信仰を得ていたものと思います。その傍に漁船が着いていて道路の歩道まで魚を運び販売していました。次に近づいたのは尾道市役所です。隣は公会堂です。公会堂の前で横断歩道を渡ると明治時代の倉庫を利用した「おのみち映画資料館」です。

 玄関横に古い時代の営業用映写機が置いてありそれが看板代わりになっています。入るとまず小津安二郎のコーナーで懐かしい写真が並んでいます。原節子や笠智衆などか出ています。その他尾道関係の映画のスチール写真、プロマイド、ポスター、ちらしなどが展示されています。シネマサロンには椅子と机が用意され書棚にある尾道の映画に関する資料が自由に取り出して閲覧できるようになっています。一番奥は二十席のミニシアターで丁度尾道の観光案内が上映されていました。三十六ミリのフィルムです。二階には新藤兼人の世界という部屋もあり乙羽信子の写真も沢山ありました。

 海岸通が国道に合流する所のすこし西で線路を越えると浄土寺です。

 聖徳太子創建といわれ足利氏ゆかりの寺で足利尊氏は湊川の合戦の前一万巻の観音経を読んで戦勝を祈願したそうです。今は真言宗です。建物では朱塗りの本堂と多宝塔は国宝で、重文は足利家の家紋が掲げられた山門と阿弥陀堂それに伏見城から移したと言われる茶室の露滴庵です。特に多宝塔は高野山のものとともに有名だそうです。

 再び国道に戻って西に行くと左側に尾道白樺美術館があります。武者小路実篤、志賀直哉、里見敦、小島喜久雄、柳宗悦らに有島武郎、有島生馬その他の文学者や画家が集まり、後には長与善郎、山脇信徳、千家元麿、バーナード・リーチ、梅原龍三郎、中川一政、富本憲吉らが加わった白樺同人の作品やゆかりの品が展示されています。これらの人たちの大部分が集まった写真もあります。武者小路はロダンから贈られて来たブロンズ像とセザンヌとゴッホの絵を一堂に並べて見たいと言ったそうで、それが実現されています。美術館の建物はこの地が空き地であってマンション建設の話が持ち上がったのですが、地もとの人たちが景観を損なうので反対の運動を起こしやっと建設阻止に成功し土地を手に入れましたが、借入金が沢山残ってしまいました。そこに尾道の出身である画商の吉井長三さんが開いている、山梨県の清春白樺美術館の分館を造りたいとの話が起こり、やっと出来上がったものです。梅原龍三郎邸を復元し展示室を付設したもので、一部に梅原龍三郎記念室を設けてあります。また丁度特別展として東山魁夷展があっていて大作の波濤や朝雲が展示されていました。

 再び国道に出て西に歩きます。お腹がすいてきました。長江口で左に折れ長江通りの延長である薬師堂通りに入り、有名な尾道ラーメンの店に来ましたが、ずらりと行列が出来ています。簡単に入られそうでありません。あきらめて本通商店街のアーケードの中を歩いていると小奇麗なお鮨屋さんがありました。尾道で魚を食べるならお鮨屋さんが良いと聞いていたのでそこに決めました。ビールを飲みながら待っていると出てきたお鮨の魚が新鮮で美味しく久しぶりに満足しました。

 食後は疲れているのでホテルに帰りのんびりと過ごしました。夕ご飯はホテルで簡単に済ませましたがワインは王様の涙です。



 十月十七日午前、駅前から長江口に行き次の分かれ道に入り線路を潜ってだらだら坂を上ってゆくと、右に長い石段がありその上に立派な彫刻を施された山門があります。福寿寺ですが今日は遠くから拝んで通ります。更に暫らく登って右折し石段の多い細い道をだいぶ登ると大山寺です。境内に日限地蔵があり受験生などに人気があるそうです。軒を並べるように御袖天満宮が鎮座しています。

 再び元の坂道に戻って東に進むとれんが坂です。道に煉瓦が敷き詰めてあります。大山寺に来るまでの道にもタイルを敷き詰めたタイル坂があったそうですが、傷みが激しくて今では全部剥してしまったそうです。れんが坂の尽きた所で左折して登って行くと仁王門があります。西国寺です。左右の仁王様より門に下げられた大きな草鞋のほうが有名です。長さ二米あるそうです。門を過ぎると一〇八段の石段が続きます。途中の左側に持善院があり寿命の神様と言われる多賀大皇神も祀られています。更に長い石段を登ります。途中で振り返ってみると随分登ったので尾道の町と海が美しく眺められます。石段を登りきると堂々とした金堂です。隣には子もらい地蔵がありお礼に奉納した小さなお地蔵さんが沢山置いてあります。子供を授かりたい人は小さいお地蔵さんを一個、登録して預かって帰ります。願いがかなった人は新しい小さい地蔵さんと古い地蔵さんの二体を持ってお礼参りに来るのです。金堂の後ろに進むと持仏堂、不動堂、毘沙門堂と横に並んでいてその後方に三重塔が見えます。さすがに疲れました。塔の所までは細い道が見えていますが此処で失礼して返ります。

 もと来た道を帰ります。長い石段の途中の持善院と反対側に金剛院があります。宝土寺のように欄間とそれを囲む漆喰の白さが美しい建物です。石段や坂道は膝に自信のない私にとって下りは特に難行です。本当に苦労して国道まで戻りました。

 国道を越えた一帯は新開と呼ばれる歓楽街です。路地から路地へとつながる小料理屋、バー、スタンドなど夜迷い込むと出られなくなりそうです。昼間なので通り過ぎて駅前まで戻ってきました。日曜日なので観光客などが多く食堂などは混んでいます。例によってデパートの地下でサンドウィッチや果物などを買い込みホテルでゆっくりお昼ご飯にしました。

 夕ご飯はホテルで簡単に済ませました。ワインは王様の涙です。



 十月十八日午前、今日は最後の日です。駅で帰りの切符を買い、見残した天寧寺と志賀直哉の旧居を見に行くことにします。国道を東に行き長江口の手前で線路を潜ると左側が天寧寺です。

 階段を登って右に折れると堂々たる本堂です。その左手には羅漢堂があり彩色された五百羅漢がずらりと安置してあります。そのはるか後方に海雲塔と呼ばれる塔が見えます。一三六七年に足利義詮が建てたもので何かの原因で上部が損壊し五層であったものが三重塔に修理されているとも聞きました。

 天寧寺の西側は千光寺道です。更にその西は新千光寺道です。この道は宝土寺の傍です。宝土寺の北側に当たる所に先日見残した文学公園と志賀直哉旧居があります。細くて曲がりくねっているので標示はしてあるのですが迷いそうになります。やっと文学公園に来ました。ここは文学碑と休憩所とトイレと広場が主体で団体の観光客には便利でしょうが石造りのものが多く少し無粋です。その奥にある細長い建物が志賀直哉の旧居です。三軒の棟割長屋の一番奥です。六畳と三畳に土間の炊事場ですが、彼の手紙によると「メシは隣のバアさんがタイてくれる。食器も洗ってくれる。雑巾もかけてくれる。使い水もくむでくれる。静かな親切なイイ婆さんだ。」と書かれています。

 また「海の向こうに家があって汽車が山の下を通っている。僕の家はその山の中腹にあって、恐ろしく晴々した景色を前に持っている。」とも書かれています。汽車ではないが今でもそのままの景色です。暗夜行路はこの部屋で出来上がったのです。此処で直哉は暖房にガスストーブを使ったそうですが、ガスの使用料が尾道で二番目だったそうです。

 駅まで帰ってきました。駅の隣にあるビルの二階に上がりイタリア料理の店に入りお昼ご飯にしました。何となく落ち着かない店です。ピールとランチで済ませました。

 これで今度の尾道の見物も終わりです。午後はゆっくり自室で休憩しました。夕ご飯はシェフお勧めのディナーにしましたが肉が主体の料理なのでボルドーの赤を勧められました。飲みなれていないので前菜の時から飲むにしては重すぎると思いましたが折角勧めてくれるのでそれにしました。

 十月十九日、朝から雨です。台風も近づいているようです。昨日までお天気続きで本当に幸いでした。
 十時にチェックアウトを済ませそのままタクシーを呼んでもらって新尾道駅に行き、新尾道からこだまで福山まで行きのぞみに乗換えて新神戸までは約一時間でした。


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