ワインと旅の随想 「issyさんの日記」


               No.8  2002.9



bW 河(川)下り



まずドイツで有名なライン河下りから始めましょう。本当はマインツからコブレンツまでの6時間コースが一般的なのですが、多くの旅行者はリューデスハイムからザンクトゴアスハウゼンまでの3時間に絞るようです。私達もそれに習いました。

リューデスハイムは観光の基地であるばかりでなく、ラインワインの大生産地であり大消費地でもあるのです。 有名なドロッセルガッセ(つぐみ横丁) を通りましたが、ワインレストランやパブが軒を連ねて並んでいます。ほとんどの店が看板に「分け売りワインと樽出しビール」 と書いています。朝なので人通りは少なく、準備中の娘さんたちが手を振ってくれました。

船は10時に岸を離れました。思ったより大きな船で200人も乗っているでしょうか、一階は満席です。二階はレストランでこれもほぼ満席です。折りたたみ椅子を受け取って三階のオープンデッキに席を取りました。途中乗船なので贅沢は言えません。

 対岸のビンゲンに寄港し、ナーエ河の合流する岩礁地帯を通ります。河中のやや大きな岩礁の上に黄色の細長い塔が見えてきました。昔マインツの大司教が河を通る船から通行税を取るために築いた建物で、鼠の塔と呼ばれています。 或る年この地方に大飢饉があり、飢えた住民が大挙して大司教のもとに嘆願に来ました。大司教は食料を支給すると偽って穀倉に集め、監禁して火を放ち皆殺しにしました。そのとき穀倉から逃げ延びた鼠の大群が大司教をその館に襲い、逃げる大司教をこの塔に追い詰めて、食い殺してしまったのです。それでこの名前が付けられました。本当は鼠でなくて住民だったのではないでしょうか。

今度は河の中に白い細長い船のような城が見えてきました。プファルツ城です。やはりプファルツ侯が通行税を取るために築いたものです。さらにグーテンフェルス城、1166年築城の美しいシェーンブルク城と続きました。
 
  いよいよローレライです。これはライン河に突き出した高さ130米の大きな岩で、このため河には1日に3時間程度しか日が当たらず、急流で岩礁が多くライン河最大の難所だったのだそうです。船の拡声器がローレライの曲を大きく流します。ローレライの伝説とハイネの詩は誰でもご存知でしょうが、ドイツの人たちはあまり知らないようです。たまたま私達と一緒に乗っていたのがスペインの農業経営者団体だったのですが、大合唱を始めました。私達も日本語で歌って急に仲良くなりました。

ローレライを過ぎるとすぐザンクトゴアスハウゼンです。私達はここで下船しました。

               

これに比べると「日本ライン」は全く別の印象を受けます。私は「木曽川下り」とでも呼んだほうがよいと思いますが、カタカナ好きの日本人目当ての命名なのでしょう。舟は長さ十米足らずで、木製、平底です。「へさき」も「とも」もとがっていて、よく見ないとその区別がつきません。両側に円座のようなクッションが十五個置かれた三十人乗りです。その他船頭が舳先に二人、ともに一人乗っています。船頭達三人は舟を中流に漕ぎ出しました。流れが緩やかなのでさらに下流に向かって漕ぎ続けます。船は一定の間隔で列を作って進みます。

 左に夜泣岩がありその後は崖になっています。右は太田の町並みで、川岸の家に白壁が多く松の緑が美しく川面に映えています。ふりかえって見るとはるか上流に御岳連山らしい山々が見えています。水流がやや右に曲がり、さわさわと水音がして松が瀬にかかります。今度は水流がゆるやかに左に方向を変えます。左に広がるのは承久の変で戦場になった大炊の川原です。水流は次第に早くなり大濤の瀬、鷺が瀬と過ぎ、高さ二十米の崖に突き当たります。崖の手前で左から可児(かに)川が合流しています。水はお互いにせめぎ合い、岩に襲いかかり、渦を巻き、複雑な瀬となっています。これが日本ライン随一の難所、可児合(かにあい)の瀬です。船頭は今此処は水量が少ないので大したことはなく、次の西の保の瀬が一番嫌だと言います。

 船頭達の顔がにわかに緊張してきました。西の保の瀬が近付いたのです。左岸は板状の岩を高く積み上げたような四枚岩、続いて低い崖の上にこんもりと茂った森林のある香木峡、昔は香木の林だったそうですが今は違うそうです。崖の下は大きな岩がごろごろころがっています。右岸も大きな岩が沢山並んでいます。水流は狭められ、速められ、大きな落差を造っています。ギシギシミシミシと舟は悲鳴をあげて激流の中を下ります。やっと無事通過したと思った瞬間大きな波が舟を襲い、最後尾の女性二人が頭から水を被ってしまいました。

 岩の間を通り抜け視界が広がると右岸に国鉄高山線と国道二十一号線が見えます。そのトンネルの上あたりに岩屋観音があり、その下が観音の瀬ですが、それらの少し手前に中仙道六十九次の太田の渡しがあります。

 尾張富士が美しく見える富士が瀬を過ぎると川幅が広くなり、水流はあるかないかの緩やかさになります。長瀞と呼ばれる広々とした水面です。

 やがて船頭達は舟を漕ぎ始め五艚ずつの集団を作り、綱で数珠繋ぎにしました。私達は先頭の集団です。やがて下流から白波をたてて引き船が来ました。引き船といっても川舟に舷外機を付けただけの舟ですが、その音がいかにも力強く聞こえます。私達の傍にくると鮮やかにUターンしました。先頭の船頭がすかさず綱を投げると、巧みに受け取って早速曳航し始めるとみるみるスピードが上がり始めました。

 犬山橋が次第に近付いてきます。橋の右側は旅館が立ち並んだ城山、その向こうは鵜沼の町並み、左側はライン下りの着船場でホテルなどが建っています。橋より下流の左から突き出ている緑の高台に犬山城が聳えています。白帝城の名に背かず白壁が輝き、美しい華頭窓がよく見えます。舟から下りた私達は犬山城に行くためタクシーを拾って出発しました。 

          

 中国でも有名な河下りがあります。それは桂林を流れる?江を下るものです。ヨーロッパとも日本ともちがった美しい景色です。?江下りのフルコースは桂林市内で乗り、約八〇粁下流の陽朔までですが、中流の楊堤から陽朔まで四時間を船に乗り、陽朔を観光してからバスで帰るのが一般的のようです。私達は好運にも桂林郊外の新年会式場で乗船し、楊堤を通り興坪まで行き、折り返して楊堤に戻ってバスで帰ることになりました。

 暫く穏やかな流れが続きます。その間に昼食が出ます。食卓に携帯用のガスコンロが置かれ、鍋にスープが煮立ちます。牛・豚・羊・鶏。それに漓江の魚と各種の野菜が出てきました。各自が好きなものを好きなだけ煮て食べるのです。寄せ鍋かしゃぶしゃぶのような料理です。船は50人乗りでポンポンと音を立てて走ります。

 やがて流れが早くなってきて左右に珍しい景色が始まります。「望夫仙石」は乳児を抱く若い夫婦の姿、「冠岩幽境」は王冠に似た岩のある風景、「綉山彩絵」は多くの色彩が見られる崖などさすがに文字の国です。これらを過ぎると急に両岸が迫ってきて、おまけに曲がりくねった急流です。二人の船員が船首に立って、太い棒で両岸の岩を押して船の操縦を助けます。ここを過ぎると広々とした所に出ました。

 右岸の砂浜の奥に小高い丘があり、その上にまだ咲いていませんが桃の木と、松と竹の林に守られた数軒の家が見えます。桃源と呼ばれる夢のような景色です。水辺には洗濯に励む女性があり、岸辺には洗濯物が広げられ、その付近に小さい子供が二人戯れています。

 近付いて来た船を見ると大きな竹を五本結んだだけの簡単なもので、鳥籠と魚籠を積んでいて鵜飼いに行くところでした。

 楊堤が見えてきました。ここはやや大きな集落があり、寺院らしい屋根も見えます。このあたりの山々は羊の群が遊んでいる姿のシルエットに似ているので、昔は羊蹄と呼ばれていたそうです。ここには遠くまで荷物を運ぶ、割合大きな手漕ぎの木造船も停泊しています。家族が船で生活し、漓江を遡り、秦の始皇帝が造った運河で洞庭湖から揚子江に出て、大運河を通り、長年かかって北京まででも行くのです。

 楊堤を過ぎるとまた暫く左岸に奇岩奇石です。筆岩、林檎岩など、名前はありふれた勝手なものが多いようです。「画山観馬」は岩肌に九馬図が現われていると言われています。美しいのですが説明を聞かなければ馬とは思われません。今度は右岸に山羊岩、家鴨岩などがあります。「黄布倒影」は河底に黄色く滑らかで巨大な一枚岩が横たわっています。

 まもなく支流が合流して広々とした水面に出ました。その先の左岸がホテルもあると言われる興坪の街です。今日の漓江下りは此処までですが、興坪は交通の便が悪いので、船は大きくUターンして楊堤まで引返します。楊堤で上陸し、混雑する舟着場でやっとバスに乗り桂林に帰りました。

 この日の夕食はこの旅行で初めてホテルでの洋食でしたので、待望のワインを美味しくいただきました。

日本の川下りには瀞八丁とか保津川とか大歩危小歩危などと有名な所が沢山あります。これらについてもそのうちお話しする機会があると思います。


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