ワインと旅の随想 「issyさんの日記」 bQ3 岡 山 2004.6月 |
体の中に危険物を抱え込んでいるので、何かに気を取られている時は忘れていますが、ボーッとしているとすぐ其のことばかりが気になって憂鬱になります。病院通いの間の少しの暇を見つけて岡山まで行ってきました。 先ず久しぶりに岡山から JR で倉敷に行きましたが雨が降っています。駅の北側は遊園地のチボリですがひっそりしています。土曜日ですが雨のために人が少なく私にとっては幸いです。駅前からタクシーで大原美術館に直行しました。 (大原美術館) 玄関の左右にはロダン美術館が鋳造した「洗礼者ヨハネ」と「カレーの市民」のブロンズ像が出迎えています。入場料が六十五歳以上は半額でした。 本館はこの美術館の中心で古くからの美術品が並んでいます。グレコの「受胎告知」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」はよく知られています。セザンヌは「水浴」と「風景」が並べてありますが私は断然風景が好きです。この絵は美術館創立時白樺美術館から出展されていたのですが、その後武者小路実篤・志賀直哉の両氏の尽力により白樺美術館から大原美術館に寄贈されたものだそうです。 この美術館で最も有名なのはモネの「睡蓮」です。大原孫三郎の依頼を受けた児島虎次郎がフランスのジべルニーの自宅に九十七歳のモネを訪れて直接懇願し、後日何等かの作品を譲り受けることを約束してもらったものだそうです。 その他私の好きなものを幾つか挙げると、ラファエリの「アニエールの街路」、シダネルの「夕暮れの小卓」、ルソーの「牛のいる風景」、レールマンの「小径」などがあります。 工芸館と東洋館では浜田庄司、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎など有名な陶芸家の作品や棟方志功の作品がずらりと並び、そのほかに児島虎次郎が集めた古代東洋の美術品も飾られています。 分館には藤島武二、青木繁、岸田劉生,坂本繁二郎、梅原龍三郎、安井曽太郎など日本の画家の作品が並んでいます。 三時間ぐらいゆっくりと回りましたが案外疲れました。外に出てみるとやはり小雨が降っています。タクシーを拾って倉敷駅に急ぎ岡山に帰りました。 * 翌日は雲ひとつない快晴です。後楽園の花菖蒲が綺麗に咲いていると聞いたので出かけてみました。 (岡山後楽園の菖蒲畑と流店) タクシーで正門の前まで行きました。ここは六十五歳以上は無料なのです。 藩主池田綱政が造園を始め元禄十三年(1700)に完成した林泉回遊式庭園です。その後何回か洪水や台風などで損害を受けましたが補修を繰返し、明治十七年には岡山県に寄贈されました。戦争による大被害も絵画や図面から正確に復元されているそうです。 正門から入って暫く歩くと大きな「沢の池」があります。それを左にして進むと右側に築山の「唯心山」が近づきます。先のほうは井田でまもなく田植えが行われるそうです。其のおくには茶畑の緑が見えています。築山の東側に回りこむと「流店」と呼ばれる建物があります。藩主が散策の途中に休憩に使ったそうですが、建物の中に清流を引き込んだ面白い建物です。其の隣が菖蒲畑になっていてやや盛りを過ぎていますが花菖蒲が一面に咲いていました。 三脚を組んで撮影している人たちの間を通り抜けると、旭川を挟んで金烏城とか烏城と呼ばれる岡山城の天守閣が見えてきました。もう全く青葉になった藤棚の下を進むと南門に来ました。門を出ると旭川の川畔で茶店が並び、其の傍には貸しボートが沢山つながれています。ほんの少し遡ると月見橋があり、これを渡ると岡山城に行くことが出来ます。 * 岡山城の前身は南北朝時代に名和氏の一族が石山の地に館を構えたのが始まりだそうです。1570年に宇喜多直家が攻め落とし、石垣や隅櫓を設け書院造の建物などを造り1573年に完成させて居城としました。しかし直家は中国制覇に力を尽くし城郭の建設までは出来なかったようです。その子秀家は秀吉の援助もあって本格的城郭を建築しました。しかし関が原の敗戦で八丈島に流罪となりました。変わって城主になった小早川秀秋は一年十ヶ月の短期間であったのですが城内と城下町の大改造を行ったそうです。次の城主池田忠継は幼少であったため兄利隆が代理で工事を継続し、次いで城主となった弟忠雄が完成にこぎつけました。これ以後は大きな変化を加えられることなく明治時代まで続きました。 (岡山城天守閣と旭川) 馬場口門跡から城内に入ります。次は復元された廊下門を通り本丸中の段に入ります。御殿のあったところです。月見櫓が見られます。外からは軍事用の隅櫓ですが三層目には欄干のついた周り縁が作られていて月見の宴にでも使われたものでしょう。 中の段から上の段に進むには復元された不明門があります。殿様が御殿から天主に行かれるとき以外は閉じられていたので「あかずの門」と呼ばれていたようです。本丸上の段には天守閣があります。御殿の上に望楼をつけたような形です。壁は黒漆を塗った板で覆ってあるので烏城と呼ばれたのでしょう。鯱鉾、鬼瓦、軒瓦には金箔を貼ってあったそうです。今の天守閣は昭和四十一年再建の鉄筋コンクリート造りです。川に面した一隅に六十一雁木上門があり、門の外は六十一の階段を下ると六十一雁木下門(坂下門)があり下の段に出ます、更に中水門を出ると旭川の川原に出ることが出来ます。 不明門から中の段に下りて鉄門を通ると下の段に出ます。もともとはこちらが大手門からの通路です。私は裏門から入ったことになります。太鼓櫓を眺めながら内下馬門を出て目安橋を渡ると城外に出ます。 林原美術館は目安橋を渡って右に行けば突き当たりにあります。林原一郎氏の個人的蒐集品を展示されています。丁度「大名池田家の名品」展が行われていました。甲冑、刀剣、能衣装、書画、雛人形、遊具、日用具など大大名の生活を偲ばせるものばかりでした。 美術館を出て南に少し行くと県庁があります。その手前の通りが県庁通りです。この通りをどんどん西に行けば岡山駅の近くに行けるはずです。すぐ横切るのが市電東山線で県庁前の停留所があります。北側に中国銀行その北に日本銀行が見えます。更に西に進めば左にデパートの天満屋、次いで紀伊国屋書店、中央郵便局、右にNTTがあり、今度は市電清輝橋線を横切ります。右に農業会館少し行くとストアのジョモ、それを過ぎると西川の畔に続く緑地公園です。今度も右にセブンイレブンと岡山信用金庫左がビブレA館です。高島屋が見えてきました。右に曲がるとオーパーがあり、そこで横断歩道を渡りやっとホテルに帰り着きました。 * 翌日も好いお天気です。前日に歩きすぎたのでタクシーで吉備路を少し回ることにしました。 伝説によれば昔鬼の城を住処とした温羅(別名吉備冠者)と呼ばれるものが、鬼の城を棲家として西国から都に送る貢物を強奪したり、村の若い娘をさらったり悪事の限りをしていました。彼の風体は身長が一丈四尺(約4.2米)、両眼は虎のように鋭かったと言います。村人は温羅を大いに恐れおののき朝廷に直訴しました。そこで大和朝廷は吉備津彦命を遣わして退治することになりました。 吉備の中山に陣をしいた吉備津彦命は温羅の立て籠もる鬼の城をめがけて矢を射るのですが、射る矢も射る矢も温羅の投げる巨岩と空中で衝突して共に落ちてしまいます。そこで吉備津彦命は一計を案じ弓に一度に二本の矢をつがえて放ちました。そのうち一本は巨岩に阻まれましたが他の一本は見事に温羅に命中しました。鬼の城から流れる川は彼の血を吸い一面の浜を赤く染めました。とうとう温羅は鯉に姿を変えて海に逃れようとしました。それを知った吉備津彦命は鵜に化けてこの鯉を捕らえて退治したのです。 国道百八十号線を西に進み吉備線備前一宮駅近くの吉備津彦神社に来ました。吉備の中山東麓にあり駅名の通り備前の国の一宮で吉備津彦命を祀った流造の美しい社殿です。社前にある矢置石は吉備津彦命が温羅に向かって射る矢を置いて思案した石と言われています。 吉備の中山の北麓を行くと鼻ぐり塚があります。牛の鼻輪を祀ったもので不要になった牛の鼻輪が積み上げられていて、彩色されているものは東南アジアからのものだそうです。 (吉備津神社本殿) 中山の西麓には吉備津神社があります。吉備津彦命を祀った社ですが備中備後の守護神で、県内最古の神社だそうです。本殿の比翼入母屋造りは独特のものです。長さ400米の回廊はとても壮観です。途中に釜鳴りで占いをする所があり薪が燃やし続けられていますし、紫陽花が満開のところもありました。 岡山市の西の端に当たるところに造山古墳があります、仁徳・応神・履中の三天皇陵に次ぐ全国第四位の前方後円墳で古代吉備国の強大な力を示しています。 総社市に入ってすぐ備中国分尼寺址がありますが、国分寺と同時代に立てられたものです。今は松林の中に礎石が残るだけですが、創建当時には法隆寺と同程度の規模の伽藍があつたとされています。 次はこうもり塚古墳です。全長約百米の前方後円墳で玄室には家型石棺が納められた複葬墓のようです。 (備中国分寺五重塔) 田植えが終わったばかりの田圃の向こうに五重塔が見えてきました。聖武天皇の勅願により全国に建てられた国分寺の一つ備中国分寺です。天平十三年(741)に完成しましたがその後荒廃し、現在残る三門、五重塔、客殿、大師堂は江戸時代再建されたものです。 元気な時なら更に雪舟の修行寺や生誕地、木下利玄生家、旧足守藩侍屋敷、最上稲荷、高松城などを回りたい所ですが疲れてきました。このあたりで引き返すことにし ました。 |
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