ワインと旅の随想 「issyさんの日記」


               No.7  2002.8



bV    高い所




 何故こんな題で話をはじめるかと言いますと、私は白状すれば高山病になり易いのです。私は高所恐怖症では なくて高山病恐怖症なのです。インカの遺跡などとても興味があるのですが、高い所ばかりで指をくわえて珍しい話に聞き入るばかりです。

 最も低い所からお話しましょう。1991年にメキシコに行った時です。一三世紀末にメキシコのアステカ族が砂漠のなかに広大な廃墟を見付けて、テオティワカン(神々の都)と名付けました。BC200年頃出現しAD400年頃最も栄えた祭祀都市であり、人口10万人以上あったと想像されています。

 そこに太陽のピラミッドと呼ばれる祭祀場跡があります。底面が正方形に近く、長方形の各辺は二二八米と二一六米、高さは六四米で、体積はエジプトのピラミッドより大きいそうです。頂上には神殿があったと推定されています。

 メキシコシティが標高二二四〇米で、それよりテオティワカンが高地にあるのです。そこからさらに六四米登るのですから、私のように肺活量の少なくなってしまったものは、ゆっくりと大きな呼吸をしながら、一歩一歩慎重に登りました。月世界での歩行のように足をあまり上げずにのしのしと歩きます。それでも息が次第にはずんできます。頭の中が白くなってバランスがとり難くなり、その上頭が痛くなって吐気さえしてきます。やっとのことで頂上にたどり着きました。

 本当に息を切らして登った頂上からは、遺蹟全域と周囲の広々としたなだらかな丘
陵地帯が眺められます。潅木が点々と生えてはいますが、やはり砂漠と形容すべきで
しよう。しばらく動かないでいると呼吸も楽になってきます。しかし下り始めるとま
た苦しくなってきます。

 やっと麓に戻って土産物店の近くまで行き、同じような建てかたをした数軒の小綺麗なレストランの一つに入りました。何はともあれこんなに暑く乾いたところではまずビールです。ワインは考えませんでした。そのビールの美味しかったこと、忘れられません。

 ゆっくりとビールを飲んで一息入れ、それから遅くなった昼食を食べました。主にアメリカの観光客を目当ての店だったので、月並みなバイキング料理でしたが、それでも美味しく頂きました。

 次は1987年にハワイに行きマウイ島のハレアカラ火山に登ったときのことです。カフルイの空港には日系三世のマイク内田がクライスラーで迎えに来ていました。この車で今から一気に三〇五六米のハレアカラ火山の頂上まで登るのです。

 平野部は主に野菜畑ですが、傾斜地になると一面のパイナップル畑と牧草地です。三七七号線に入ると標高は一四〇〇米になり景色や気候がスイスに良く似ていると言われるクラ地区です。低温と豊かな土壌に恵まれ果樹栽培が盛んで、日系人経営の農場も多く、日本内地と全く変わらない柿の実が収穫されるそうです。今まで山を巻くように南に走っていた道から、東に岐れて三七八号線の急坂を登り始めます。空港を出発してから約一時間経過しています。

 少し登るとサンライズ・マーケットがあります。サンライズ・プロティア農園の敷地内にある観光ドライブの休憩所で、果物、ジュース、スナックなども売っていますが、主な目的はやはりプロティアの花やそのドライフラワーの販売です。

 さらに三〇分走って標高二二〇〇米にある公園管理事務所に来ました。パンフレットを貰い、ハレアカラ火山の模型を見ます。火口は東西十一粁、南北四粁、周囲三十四粁、火口原の中に九つの火口丘があり、それをとりまく火口壁の高さが二〇〇米です。

 管理事務所からヘアピン・カーブを一時間近く登り、火口の縁にあるクレーター、カラハク、ビジター・センター、レッド・ヒルの各展望台から、月の砂漠と言われる漠々たる景色や珍しい植物を眺めて回りました。シルバーソード(銀剣草)群生地は、カラハク展望台の近くにあります。密生した銀色の剣のような葉があり、中央に高く伸びた茎にこんもりと小さな紫色の花を咲かせています。勿論ハワイ原産ですが、不思議なことに世界中で同じ種類の植物がヒマラヤにだけあるそうです。

 珍しい景色と珍しい植物に気をとられて思わず少し努力気味に歩きましたが、足元が定かでなく、変に口の中が乾燥して嘔気さえしてきました。それでも一般コースを全部歩くことが出来ました。

 登りはエンジンがオーバーヒートするのを心配をしていたようですが、帰りはその心配がないので、もときた道をカフルイ空港の傍まで、一度も休まずに走りました。

低いところに下りてくれば元気なものです。マウイ島のくびれた所にあるマアラエアまで来て、ホテルで昼食となりました。目の前は鯨も来るマアラエア湾です。遠くには真っ白い豪華船が見えています。あっさりした赤ワインが美味しくて食が進みました。

 次は1983年にモンブランに行ったときです。ジュネーブから国境を越えて八三粁離れたフランスのシャモニーにやって来ました。スイスにとっては残念なことですが、アルプスの最高峰標高四八〇七米のモンブランは、スイスに近くてもフランスとイタリアの国境にある山なのです。
 
 シャモニーは人口約一万ですがモンブランの登山基地であり、スキーのメッカでもあって、世界中から沢山の人々が訪れて来ます。南にモンブランを中心に多くの針峰群、そのうちエギューユ・デュ・ミディに今から登ります。北はオリンビックのスキーが行なわれたブレバンを中心にした山々、その間を流れるアルプ川に沿って街があります。

 エイギーユ・デュ・ミディは標高三八四二米で、頂上に登るロープウェイは、途中で一度乗り継いで、標高差二七〇〇米を一気に登ります。そこはピトン・ノール展望台で三八〇二米です。私はもう此処で足元がおぼつかなくなりました。モンブラン(四八〇七米)、ダン・デュ・ジュアン(四〇一三米)、グランド・ジョラス(四二〇八米)が眺められ、遥か麓にはシャモニーの街が玩具のように見えます。

 私は此処でワインではなくコーヒーを飲みながらおとなしくしていましたが、同行の人たちは、晴れた日にはマッターホルンやモンテ・ローザ迄見えるという、ピトン・サントラル展望台(三八四二米)まで、歩道橋を渡りエレベーターに乗って行って来たそうです。

 また此処からロープウェイに乗って、イタリア領のエルブロンネ展望台(三四六六米)に行き、さらにロープウェイを乗り継いでイタリア領のアントレーブに下りても、約一二粁のモンブラントンネルを通ると、簡単にシャモニーに戻れるそうです。

 麓に戻るとすぐ元気になるから不思議なものです。ここはフランスです。アルプ川に近いホテルのレストランで赤ワインで昼食をすませ、朝来た道をジュネーブまで戻りました。

 今度は1988年、ユングフラウに行ったときです。ホテルを出て朝の柔らかい日の光を浴びながら、坂道を上ってグリンデルワルト駅に向かいました。駅と言っても事務所と待合室以外には、道路より僅かに高いプラットホームがあるだけです。待合室に入らずに日当たりのよい道路で待っている人のほうが多いようです。発車時刻近くになると厳しい制服の車掌が車両の扉を開けてくれます。乗客の落着くのを待って車掌が乗車券を調べますが、殆どが予約の団体のようです。

 軌道は単線で列車は集団運行です。アプト式独特のカタカタという音をたてながら、二乃至五両編成の列車が次々に同じ方向に走ります。約四〇分でクライネシャイデックに着きました。此処は標高二〇六一米の草原地帯で、交通の要衝でありハイキングコースの中心なのです。此処で電車を乗換えてユングフラウヨッホに向かいます。二粁走った所からトンネルになり終点までずっとトンネルの中です。途中に二つ地下駅があり五分間ずつ停車して、岩にあけた窓から外の景色を眺めさせてくれます。

 ユングフラウヨッホは標高三四五四米です。私のように肺活量が少なくなってしまった人間は、足元が定かでないので、健康な人と同じような行動は遠慮したほうが良いようです。着くとそのままレストラン・トップ・オブ・ユアラップに行き、静かに座ってゆっくり外の景色を眺めることにしました。

 同行の人達はみんな一緒に地下道を通りリフトに乗って、標高三五七三米のスフィンクステラスに行き、ヨーロッパ最大のアレッチ氷河などの景色を楽しんできたそうです。モンブラン観光の時もエイギーユ・デュ・ミディは三八四二米あり、私は用心して余り動きませんでした。ハワイでマウイ島のハレアカラ火山は三〇五七米でしたが、私も元気に歩くことか出来ました。このあたりが私の限界かと思います。

 帰りにはクライネシャイデックで長時間の乗換時間を利用して、ゆっくり赤ワインで昼食をとり、食後に草原をしばらく散歩し、また列車に乗ってグリンデルワルト駅に戻りました。

 旧インカ帝国の遺跡などとても無理です。
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