ワインと旅の随想 「issyさんの日記」


               No.6  2002.7.


bU    飛行機




私が初めて旅客飛行機に乗ったのはダグラスDC3でした。1936年生まれのこの飛行機は世界でもっとも安全な飛行機といわれ、戦前に一万数千機製造され世界中の空で飛んでいると言われていました。

 ご存知の方も多いでしょうが双発のプロペラ機で、主翼の下にある脚のついた一対の車輪と、機体後部にある一個の尾輪で地上に止まっています。後部に出入口があり低い所なので、階段を使わず小さな踏み台程度で乗り込めます。床は坂になっていて機首が最も高くなっていますが、走り始めるとすぐ水平になります。

 日本ではJALやANAでは定期旅客機として使われませんでしたが、チャーター便として活躍したり、貨物機に転用されたりしていました。その他の会社では定期便にも長い間使用されていたようです。

 1960年頃になるとDC4になり、それに対抗してバイカウントやフレンドシップが活躍しました。どれも双発でしたがフレンドシップだけは翼の下に胴体とエンジンが付いていて、窓が大きく視界の良い安定した飛行機で私は好きでした。

 どれも速度は毎時四百粁前後、高度も三千米程度でしたから、富士山の頂上よりも下を飛んでいました。気密性が低いので耳が痛くなったりしましたが、地上の景色は面白いほど良く見えました。



 1965年頃になるとジェット機の時代となり、世界の空はDC8とダグラス707が主流とりました。ともに四発で外観は似ていますが、707は日本の会社には入っていないと思います。このころから活躍したのがターボプロップ機ですが日本の誇る「YS11」です。日本のローカル線は殆ど「YS11」でした。百数十機製造され全世界で使用され、今も健在で飛んでいますが、すでに製造が中止されいます。

  727とDC10は三つのエンジンを持ち日本では国内用の主力です。日本では主に747が海外路線に使用されていましたが、それを国内用に改良したのが 747SR です。少し小型で双発の 737 もローカル線で活躍しています。最も大きく新しいのが 767 と777 です。

 新しい飛行機も外観はそんなに変わりませんが計器類の進歩が大きく、それまで必要とされていた機関士の搭乗が無くても良くなり、操縦室は正副二人の操縦士ですむことになりました。機関士の組合から反対の運動があったようですが時代の流れは止めることは出来なかったようです。

 その後現在までは殆どホーイング社の飛行機ばかり目立ちます。トライスターやMD11、ヨーロッパから A320 などが入っていますがふるはないようです。



 話は飛びますが国際線の飛行機に乗って楽しみなことは、いろんなワインが飲めることです。しかし航空会社や航路によっても差があるようです。ロンドンからパリに飛ぶときは、フランスの飛行機でしたが飛び上がったらすぐワイン、食事、着陸態勢に入るとすぐ片付けですから急いで食べることに専念して、料理もワインも味わうことが出来ません。それでも客集めのため各社ともワインと食事の熾烈な競争をしているようです。

 日本航空の場合は日本語ですから気が楽です。どんなワインにしますかと尋ねられたので、ブルゴーニュの赤と答えるとすぐ3本持ってきて、どれになさいますかとのことです。本当は3本とも開けてもらって1杯ずつ飲みたいのですが、ビンの格好がもっともブルゴーニュらしいのを選んで1本開けてもらいました。

 飛行機では気圧のせいとか、重力のせいとか、いろいろと理由が言われていますが確かに酔い易いのです。この一本も空けることは出来ませんでした。ワイン好きが集まって旅行すれば人数分だけ開けてもらって飲み比べることも出来るでしょうが、私はまだやったことがありません。

 シヤンパンでもわざわざ一人ずつ開けてくれる会社もあれば、開けたものを注いで回り、無くなればまた開ける会社もあります。大国の会社がサービスが良いとは限りません。シンガポール航空が最も評判が良かった時代もあります。



 以前と比べると飛行機の安全性は格段に良くなりました。しかしやはり何度も利用していると思い出したくないことも幾つかあります。

 1985年に香港からキャセイパシフィックの飛行機で福岡に向かった時の話です。離陸した直後に何かショックを感じました。客室内がざわめいていると乗務員から、離陸時に一つのエンジンにトラブルが起こりましたが、すぐ回復していますのでこのまま福岡に向かいますと説明がありました。

 30分も飛んだでしょうか今度は先ほどより大きなショックが二度感じられました。今度はすぐ操縦士から「エンジントラブルがあり香港に引き返します。そのエンジン一個だけを使用しないでも、残り三個のエンジンで十分安全に飛行できますからご安心ください。」と説明がありました。

 客室内がしばらくざわめいていましたが、間もなく静かになってきました。私は知らなかったのですがエンジンから長い火炎を激しく噴き出しているのが見えたのだそうです。大きな声は使いませんがひそひそと隣から隣に伝わったのでみんな黙ってしまったのです。

 虚ろな目を開いて放心状態の人、口の中で何かつぶやきながら祈っている人、真っ青な顔をして隣の人にしがみついている人、歯を食いしばって顔を両手で覆っている人、恐怖に満ちた静寂です。機内放送だけが時々中国語、英語、日本語で絶対に大丈夫だから心配しないようにと繰り返していました。

 エンジンの力が減ったのと季節風に向かって飛ぶため、30分かかって飛んだところを1時間もかかって戻ったような気がしました。空港は滑走路の傍に沢山の消防車と救急車が並んで待機しています。幸いなことに何事も無く無事着陸しました。

 客室内にどっと歓声が上がりました。躍り上がって喜ぶ人、拍手をする人、足を踏み鳴らしている人、表現はどうあれ起死回生の思いをあふれさせていまた。飛行機は滑走路の端で止められ、滑走路は閉鎖され、乗客は時間をかけてバスでその位置からターミナルビルに運ばれました。



 次は1992年福岡空港から日本航空のチャーター便で西安に向かったときの話です。丁度お昼ごろ福岡空港を出発して唐津市、松浦市などを過ぎ五島列島上空に差しかかったころ、急に翼を傾けて今来た方向に戻り始めました。操縦士からの談話によれば「高度計など計器の一部が正常に作動しないので、念のため福岡空港に引き返します。」とのことです。

 心の中に不安を抱えながら、それを顔や動作に現すまいと精一杯我慢した乗客を乗せた飛行機は、異常なまでに静寂を保って飛び続けます。翼の良く見える位置に座っていた私は、翼の先から勢い良く燃料が噴出するのを見ました。私にとって初めての経験です。緊急着陸のときは余分の燃料を放出して万一の出火に備えるとは聞いていましたが、この目でそれを眺めると複雑な心境です。 

 飛行機はそのまま順調に飛び続け、消防車と救急車が並んで待機する中を無事着陸しました。自力で駐機場に来ましたが乗客は機内に缶詰のまま点検が行われ、簡単な部品の交換をすればよいので羽田から取り寄せるまでしばらくお待ちくださいとのことです。

 とうとう機内に缶詰のまま3時間ぐらい遅れて福岡空港を再出発しましたが、直行なので2時間50分飛んで西安に到着しました。



  こんなトラブルや天候などによるスケジュールのトラブルはあきらめますが、なんとも収まりの付かないのが企業的と言いますか商業的と言いますか、利益のために自分たちが勝手に変更して、利用者を馬鹿にしたような処置をされることです。

 これは1987年にハワイに行ったときです。朝早く飛行場に行って搭乗手続きを済ませ待合室で待っていると、30分繰り上げて出発するから急いで搭乗するようにとのことです。私たちは偶然揃っていたので急いで搭乗することが出来ましたが、地元の人たちでもずいぶん乗り遅れた人があったようです。特定の人物のためにこのような措置をすることは常識では考えられません。この航空会社は有名な会社でしたが今は無くなっているようです。

 今度は1994年にダブリンの空港でのことです。アイルランドのダブリンからスコットランドのエジンバラへ行くために搭乗手続きを済ませ。搭乗券をもらって待合室で待っていましたが、電光掲示板に搭乗口の番号が出ません。そのうちに私達の前にグラスゴー行く便があったのですがそれがキャンセルと出ました。しばらくすると今度は私達の乗る便もキャンセルと出ました。

  何事が起こったのかと航空会社のカウンターに行くと、2時間後にグラスゴー経由エジンバラ行の臨時便を出すのでそれに乗ってくれということです。結局エジンバラに着いたのは3時間遅れでその日の半日観光が出来なくなりました。地元の人に聞いてみると2便とも定員を割っていたので1つにまとめたのだろう。その程度のことは稀ではないと言っていました。

 外国に行ってみると日本人が几帳面であることが良く判ります。    



ではまた・・・・
issy ・・・・
ワインと旅の随想 「issyさんの日記」
No.1はじめまして  No.汽車の旅 No. タクシー No.地下鉄 No. 市内電車
No.6飛行機 No.7高い所 No.8河(川)下り No.9_遊覧船
会社概要新着ワインお買得ワイン日本酒リスト送料・注文問合せメルマガ申込みTOP