ワインと旅の随想 「issyさんの日記」


               No.11  2002.12



bP1 歩くこと



 歩くことはとても大切なことで、歩いてさえいれば健康が保たれるとさえ言われています。子供などは一日中活発に動いていますが、歳とともに次第に活動が鈍くなり、歩くことも次第に少なくなります。老人と言われるようになると歩くことに努力しないと、健やかに老いることが難しいようです。私も足には自信があったのですが、今では同じ歳の人と比べても平均以下になっているようです。今回は良く歩いていた頃を思出してみました。

 ニュージーランドに行った時のことから始めましょう。

 一九八九年一二月二五日 宿舎のハーミテイジ・ホテルに着いた時までは、マウントクックが頂上まで良く見えていましたが、昼食を摂っている僅かの間に、すっかり霧に閉ざされてしまいました。程なく雨も降りだしました。しかし折角ここまで来たのですから、もっと近くからマウントクックを眺めたいし、氷河の遠景や高山植物も見たくて、雨風に対する完全武装を整えて、独りでフッカー峡谷の観光ハイキングコースに挑戦することにしました。

 ホテルを出て暫くは色とりどりのルービンの花が咲く草原です。後に遠く見えていたホテルが見えなくなると、やがてミルク色の水が流れるフッカー河の右岸に出ます。稀にある松の木以外は岩石と水ばかりを眺めながら約一時間歩いて、下の吊橋に着きました。

 さらに約三十分左岸を遡ると上の吊橋が見えてきました。風雨が激しくなり、目もあけられない程です。おまけに道は桟道となり、一歩一歩安全を確かめながら進みました。

 強い風で揺れている上の吊橋を渡ると美しい景色が始まります。青色の苔むした岩、緑の潅木、高山植物のお花畑、念願のマウントクック・リリーも見ることが出来ました。さらに約三十分でストッキングストリーム避難小屋に着きました。もう時間的に限度なので、もと来た道をホテルまで戻ります。来るときは随分苦しい道だと思ったのですが、帰りはずっと楽に感じるから不思議なものです。雨と汗ですっかり
着替えをしなくてはならないし、不案内な一人歩きで心細い往復四時間でした

 次はドイツのフランクフルトです。

 一九八八年六月四日、朝四時に目が醒めるともう明るくなっていたので、そっと起きだして独りで散歩に出掛けました。さすがに朝早いので人影は疎らです。それでもゴミ集めの人達はもう働いていました。

 街の中央には一八世紀の哨兵本部であるハウプトバッヘを復元したカフェレストランがあり、それを中心に広場と公園が整備され、ここを起点にして総ての交通機関が四方に発達し、市内第一の繁華街です。修復されたハウプトバッヘの建物は重厚ですが、飲食のお値段は手ごろなので、気軽に利用してくださいとお店の人は云っているそうです。

 ハウプトバッヘの前にある時計のついた塔をもつ建物は、ゲーテが洗礼を受けたプロテスタントの聖カタリーネ教会です。

 広場の東にデパート・カウフホフがあり、そのそばを北に行けば、美しいエッシェンハイマーの塔が見えてきます。これは一四二六年に建造された城門の塔です。高い円柱状の塔の上に、さらに中型の尖塔を中心に四つの小尖塔が築かれています。現在城壁はとり壊されて環状道路となり、外側の堀は埋め立てられて細長い公園となり、ともに旧市街をとり囲んでいます。

 公園のボッケンハイマー庭園にある噴水は、人影が全くないのに高く水を吹き上げています。池にそって西に行くと、オペラ広場に出ます。その中央に堂々と聳えるのは旧オペラ座です。淡いグレイで統一されたルネッサンス様式のこの建物は、戦後いち早く市民の寄付によって再建されていたのですが、建物前の広場にある噴水やガス塔のような街灯など、前回来た時より一段と風格を増したように思われます。
旧オペラ座から、さらに南に続く公園のタウヌス庭園の中を行けば、ボートーベン、ハイネ、シラー、ゲーテの記念像が、緑の木陰に一〇〇米間隔ぐらいで、程よく配置されています。ゲーテ像の傍のカイザー通リを少し東に行って、宿舎のホテル・フランクフルター・ホフに戻りました。なにしろ旧市街を半周したので、少しばかり疲れました。

 次はイタリアのフィレンツェです。

 一九九〇年五月二四日、朝から市内観光です。花の都と呼ばれるフィレンツェは、嘗てヨーロッパの富を独占した大富豪メディチ家が、この街で開花したルネサンスの学問と芸術を手厚く保護し、近代への脱皮を支えて来た街なのです。

 まず見晴しの良いミケランジェロ広場に行きました。アルノ河を渡り東に少し遡った小高い丘にあります。彼が暫らく住んでいたと伝えられる所で広場の中央にダビデ像のコピーが聳えています。

 ここから眺める赤い屋根の続くフィレンツェの町並、ドゥオモ、ジョットの鐘楼、ベッキオ橋など、本当に美しい眺めです。

 暫らく眺めを楽しんでから、丘を下りアルノ河を渡って、ウフィツィ宮にあるウフィツィ美術館に行きました。ウフィツィとは英語のオフィスでメディチ家の事務室だった建物です。私も知っているレオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」「三賢王の礼拝」や、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」「春」、ミケランジェロの「聖家族」などをじかに見ることが出来、よく判らないながら感激しました。色彩などは写真の方が綺麗ですが、気迫がちがいます。

 ここにはベッキオ橋を美しく眺めることが出来る窓もあります。この橋はアルノ河に架かる最も古い橋で二階建になっていて昔は階上を貴族が通り、階下を庶民が通っていたそうです。今はアーケード街で商店がずらりと並び、買物客が絶え間なく通っています。

 ウフィツィ宮を出て、ほんの少し北に歩くとシニョーリア広場です。ここは昔フィレンツェの政治の中心でした。

 広場を威圧するように聳えている、高さ九三米の四角な塔を持った要塞のように堅固な建物はベッキオ宮です。一時メディチ家の住居でもあったのですが、フイレンツェ共和国(トスカーナ大公国)の中央政府があった建物で、今は市役所になっています。入口には向って左にミケランジェロのダビデ像のコピー、右にバッチョ・バンデリのヘラクレスとカクスの像が立っています。

 広場は祖国の父と呼ばれたコシモ・デ・メディチの騎馬像や、ネプチューンの噴水があり、カフェテラスも設けられていて、今では観光客の休憩場所になっています。

 フィレンツェの街のシンボルであるドゥオモは「花の聖母寺」(サンタマリア・デル・フィオーレ)とも呼ばれる大寺院です。緑、白、ピンクの大理石で飾られ、高さは一〇六米もあり、幾何学的模様でありながら美しい外観は、女性的と評される優美さです。

 内部にはブルネレスキの傑作、フレスコ画の「最後の審判」や、ミケランジェロの未完の大作「ピエタ」などがあります。

 ドゥオモの南側に聳える四角い優美な塔は、ジョットの鐘楼で高さ八二米、画家ジョットが設計し彼の死後完成したものです。

 西側、ドゥオモの前に立つ八角形のロマネスク建築は、サンジョバンニ洗礼堂で、アンドレア・ピサーノ作の第一の青銅の扉と、ロレンツォ・ギベルティ作の第二第三の青銅の扉が有名です。正面の第二の扉は、ミケランジェロが「天国の扉」と叫んで絶賛したと言われていますが、はずして博物館に納め、コピーを取り付ける工事中で囲いがしてあり、見ることができませんでした。

 ダンテの家はシニョーリア広場から二筋北の通りにあり、玄関前の壁に胸像が飾られています。彼は五二才の時ここを追われ北東約二〇〇粁のラベンナに移り、そこで「神曲」を完成し、一三二一年に亡くなりました。そこからわかり難い道を通って共和国広場からドゥオモ広場に行き、さらに北に行くと捨子保育院の前に出ました。

 今度は西に行き、ミケランジェロの最高傑作ダビデ像のオリジナルがあるアカデミア美術館の傍を通り、サンマルコ修道院前の広場を過ぎ独立広場をぬけ大通りに来ました。

 今まで歩いた所は車が少なかったのですが、ここは物凄い車の混雑です。少し南にあるフィレンツェ中央駅に入って、映画で見たことのあるホームを眺め、さらに南のサンタマリア・ノッベラ教会を眺め、帰り道をさがしながらやっとホテルに帰って来ました。

 お昼ご飯も食べずに歩いたので御腹が空いています。夕食はフィレンツェの中央駅近くにある有名なレストラン・サバティーニでキャンティを飲みトスカーナ料理を食べました。

 それ以来断続的に歩くことはあっても、何時間も連続して歩くことはしていません。もっと歩くようにしなければと思いながら出来ずに過ごしています。歩かないから歩けなくなり、歩けなくなったから歩かないの悪循環で次第に老化が進みつつあります。
          
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